引越し

「何を見てるの?」
女性が荷物を整理している男性に話しかけた。
「ん?あゝこれ、覚えてる?」
男性が手にしていたのは象嵌細工が施された古い懐中時計。
もう壊れて竜頭を回しても動かなくなっている。
「ここにあったんだ、懐かしいね」
「まだあの子が3歳ぐらいの時に振り回して壁にぶつけて動かなくなったんだよな」
「あなた、かなり怒ってたものね」
「大事にしてた懐中時計だったからね、ちょっと怒り過ぎたかも」
男性は懐中時計の蓋を開け止まってしまった文字盤を見ていた。
「どうしたの?」
二人の傍に男の子がやってきた。
「壊された時はかなりショックでね、直しに持って行ったけどかなり修理代が・・・、結局直さずに壊れたままなんだけどね」
「あ、その時計僕も覚えてる。すっごく怒られたんだよね」
タイミング悪く来てしまったと、男の子は少し不安になってる様子で二人を見ていた。
「ちょっとの間あなた子供みたいに拗ねてたものね」
母親はどこか寂しそうな笑顔をしている。
「ねぇ早く荷物整理しようよ、手が止まってるよ」
男の子はまた怒られやしないかと思い二人を作業に引き戻す。
「さて、引っ越し準備一気に終わらせましょう」
父親の肩をポンと軽くたたく。
「そうだな、感傷に浸ってても終わらないからな」
「ぼくも手伝う、何やればいい?」
「じゃ、あっち片づけてくるね」
母親は子供部屋の方を指さした。
「やった~、おかあさんが手伝ってくれる。」
男の子は母親の周りをぐるぐる回りながら喜んだ。
「わかった、こっちは俺がやっとくよ」
父親はまた作業に戻った。
時折寂しそうに外を眺めながら、この家で過ごした出来事を思い出しているようだった。

夜になりあらかた荷物も詰め終わった頃。
「数日後にはここともお別れだな」
「そうね、良い事も悪い事もたくさんあったね」
「あとはあの壁を直すだけになったし」
二人が見つめる先には、壁に大きく穴が開いていた。
「あの子、寂しがるかもね」
「大丈夫だろう、大好きだったぬいぐるみも一緒だから」
「そうよね、今も抱いて寝てるし」
部屋の片隅には珪藻土や木材が用意されている。
その近くに疲れ果てたのか、男の子が赤いぬいぐるみを抱いて眠っていた。

翌日父親は壁を珪藻土で丁寧に塗り固めた。
「これですべて終わる」
閉じられた壁の穴をずっと見つめていた。
「お父さん何見てるの?」
男の子がそっと近寄る。
「きれいに塞げたし、疲れたから一休みするか」
「おやつ?今日は何かな?」
男の子は父親の後を笑顔でついて行く。
「おやつ♪おやつ♪」
机などは既に運んでいたため床に軽食と飲み物が置かれていた。
男の子はどれから食べるか迷っている。
「本当にこれで良かったのかしら?」
「仕方ないだろう、こうするしかなかったんだから」
数日後夫婦は引っ越していった。
処理業者に依頼してある処分するモノの中には子供のおもちゃなどが入っていたという。